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追悼式を行いました。

今日はカトリック典礼では死者の日

コロナ禍のため、例年のような全校集会ではなく、放送による追悼式を、中学 高校別々に行い、今年一年間てに亡くなられた本校卒業生  在校生家族 教職員 教職員家族 のために祈りを捧げました。
All Saints pray for us. Live Jesus in our hearts forever.

函館ラ・サール追悼式 

祐川神父様のお話し

 ラ・サールで学ばれている生徒の皆さま、おはようございます。昨年は、体育館での式典でしたが、今年は、新型コロナの影響で放送による追悼式となりました。

 毎年11月2日はキリスト教国では「死者の日」としてお祝いします。前日の1日が「諸聖人の祝日」にあたります。それぞれ英語ではAll Saints Day,All Souls Dayと言います。すべての無名の聖人たちのために祈り、私たちも聖人への道に招かれていることを思い起こし、次の日の死者の日では、先に帰天された人々の魂(Souls)のために祈ります。同時に、帰天された方々との絆、関係は決して切れるものではなく、今も続いており、この世を旅している私たちを勇気づけてくれるように祈ります。

 聖アウグスティヌスは死に関してこう述べています。「兄弟たちよ、一体誰が死に抵抗できるでしょうか?炎や鉄、圧制者や王には抵抗できます。しかし、死が来た時、誰がそれに抵抗できるでしょうか。死より強いものは何もありません。愛だけがその力に比べられるのです。ですから、愛は死のように強いということができます。そうです。愛は死のように強いのです。」

 十字架に張り付けにされたイエス・キリストは、最高の愛を表していると、キリスト者たちは信じています。愛する者は血だらけ、傷だらけなのです。なぜなら、自分を与えつくそうとする姿がそこにあるからです。「友のために命を捨てること、これほど大きな愛はない」とイエスは教え、そして、それを十字架の上で実践したのです。

 人間は完璧な者を愛することはできません。小さな子どもが可愛い(愛することが可能)なのは、子どもが良く転ぶからです。頭が大きく、足が短い。バランスが悪く、すぐに転んでしまいます。周りの人は見ていられなくなり、思わず助けようと手を伸ばします。可愛くてしょうがないのです。欠点があるからこそ、人は愛すべき存在なのでしょう。完璧な子どもがいたらどうでしょう。可愛くないのです。欠点があるからこそ、人は愛することができる。十字架上の神はいまや欠点だらけです。敗者の姿、十字架から降りることができません。その姿に愛である神が啓示されているのです。愛ゆえに死をその身に受けたイエスは、その死を打ち破った、これこそキリスト教の原点です。「闇は光に打ち克たなかった」ことのしるしです。ここにこそ、キリスト者の命への希望が輝いています。

 死は終わりではなく、命への新たな門である。時間と空間を超えた永遠の命の領域に招かれている、これこそキリスト教的希望なのです。神の愛により人は創られ、神の懐に帰っていく。最後にアウグスティヌスの言葉を紹介します。「神よ、あなたは私たちをご自身に向けておつくりになりました。ですから、私たちの心はあなたの内に憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。」

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